【WORD】芸術祭立ち上げに関わった行政マン

最終更新: 2018年7月11日

芸術祭をめぐる言葉6



佐藤:芸術祭が始まった時は、どんな役職だったんですか?


市の職員でしたね。 第1回の大地の芸術祭の事務局に勤めてました。事務局というのは、まだ合併前だったので、広域の6市町村(十日町、川西町、中里村、松代町、 松之山町、津南町)の 広域事務組合っていうのがあるんですけど、そこのところで事務局をやってたんですよ。で、そこに、各市町村から大地の芸術祭の関連の職員が、十日町は2人、その他は1人来て、事務局体制を作ったんですけど、私はそこの企画振興課にいました。


その時に、新潟県の「ニューにいがた里創(りそう)プラン」というもので、地域活性化をしようという大きなプランがあって、その中では県が全面的にバックアップしてくれて、当時の知事が、1つの市町村の支援をするわけではなくて、ひとつの塊と言うか、そういうまとまった考えで地域づくりをすることについては、かなり高額な支援をすると。で、県も本気になってやるという、そういうような体制ができて、それでその行政のテーマとして、広域の6市町村が、大地の芸術祭という事業に取り組もうというのが、その前段ですね。


里を創造すると書いて、「里創プラン」なんですが、それで広域6市町村のところに、どのような地域振興をやるかというのを、皆さんでまだこれをやる前に、県も含めて6市町村とでプラン作りをして、その結果として、アートを通したまちづくりをして行こうという方向が出てきて、それが具現化したのか「大地の芸術祭」なんですけど、でもそれだけじゃなくて、「里創プラン」の中には、「花の道運動」と、「ステキ発見事業(写真コンテスト)」と、それから「ステージ(ふれあい文化施設)整備」というのと、「大地の芸術祭」も含めて4つあったんですけど、その4つを事務局として所管したのが、私がいた当時の企画振興課でした。私自身は芸術祭前の段階の、「里創プラン」から関わってましたね。


佐藤:そんな中で、ご自身としては、どう捉えていたんですか?その、「アート」というようないわば「異物」のようなものが、地域に入ってくるような状況を・・・


それはね、この地域は、中学校を卒業すると、「美術」という言葉を使わなければならないという人というのは・・まぁ、高校には美術部というのがあるかもしれないけれども・・・それ以外はね、ほとんど必要がないですよ。ましてや「アート」という言葉を使わなきゃいけならない人は、1%ぐらい。「コンテンポラリーアート(現代アート)」という言葉を使わなければならないというか、言葉を知ってる人は万に1人。そういうようなところに、「コンテンポラリーアート」をベースにした、アートを中心にして地域振興をやろうという、それが他の地域とは全く違うところなんですけど、「アート」、その中でも「 コンテンポラリーアート」ですから、1万人の1人も通常の言葉として、その言葉が必要としない地域にそれをやろうとしたんだから、もう「異物」だと思うのは当然ってことなんですよね。


佐藤:確かに「アート」とか、「コンテンポラリーアート」という言葉を広めること自体も、かなり難しそうですが、なにか言い方を変えたり、柔らかく伝えたり、そういう工夫とかは・・・


何をやってもダメだったんですよ。実は当初1998年に、芸術祭の第1回をやろうという動きがあったんですけども、とてもできなくて、1999年にやろうと思ってもそれもできなくて、2000年に第1回をやったんですけど、その、第1回をやった時に、少なくともやって見せなければ、やってみなければ分からないというので、かなり無理をしてやったんですよ。大地の芸術祭の実行委員会が立ち上がったのが、やっと1998年なんですね。その年に私は企画振興課長になったんですけども、まあもう、ものすごい状態だったんですよ。


佐藤:2回試みてもできなくて、それでもまずはやってみて・・すごく、 粘って粘ってじゃないですけど・・・とにかくまずは実現へ向けて進んでいったと・・


そういったまぁ綺麗事で実現してゆくんじゃなくて・・そういうようなところがね、議会も含めて、賛成の人はほとんどいなかったですから・・それをやれたのは、広域でやるという、新潟県が「里創プラン」を立ち上げたのと、その時の知事さんが、ありきたりの地域振興策をやったとしても、「豪雪」の「過疎」の「中山間」というこの土地の条件を見ると、とてもそれを超えられるような物が出てこない。それは当時の知事と、十日町市長と、北川さんのその3人が、最後までブレなかったんですよ。


議会とか住民は、3億とか何億とかを芸術祭にお金をかけるよりも、医療もあるし、福祉もあるし、教育もあるし、設備投資もあるしという事で・・・まぁ当然のことだったんですけども。 その時に、いやこれが将来のこの地域を発展させる、可能性のあるプロジェクトだと。その時に知事と十日町市長で、6市町村を束ねる責任者、管理者だったんです。それと北川さんの、そこの鼎(かなえ)のここがね。いろんなこと言われても動かなかったんですよ。ブレなかった。それが結果的には、まあ今がある・・原点ですね。


佐藤:ブレなさですか・・


そこのところに、「里創プラン」という、真白いところから絵を書こうじゃないかというところで、行政も住民も新潟県も、かなり時間をかけてプラン作りをしたという・・でも、とっても・・1万人に1人しか必要としない言葉を具現化しようということですから・・なかなか簡単なことじゃない。


まあアートを地域おこしにやろうというのはね、例えば山梨県立美術館が、ミレーでしたっけ?ああいうのを収蔵すると言うような、 それは山梨じゃなくてもいいですよどこでもいいし、ミレーじゃなくてもピカソでもいいんですが・・・それがそういう意味では、山梨のそこの県立の美術館は、それでかなり集客をしていたんですよね。他にも箱根 彫刻の森美術館もあるし、美ヶ原高原美術館もあるし・・そういうようなものを1つの地域振興にやろうというのは、別のとこでありましたから、そういうようなものが、アートと地域おこしに使うという当時のイメージで・・・今の形を想像して、アートでやろうなんて思った人は、1人もほとんどいなかったと思いますね。


佐藤:この今のような地域とアートのあり方は全然・・


全然想像してないですよ。当時は誰も分からなかった・・というか、むしろみんな異物だと思ってたんじゃないですか?例えば川俣正さんの作品が面白いとか、川俣正のこんなのがね・・・あれだってあの立川の作品だって設置したけども、住民の反対で撤去されたと。ほとんどそうだったんですよ。白州のやつだってそうだし・・・何回か視察に行った中で、それでもこれならばやれそうだと思ったのが、あのファーレ立川のあそこだけしかなかった。他はちょっと大丈夫かな?みたいな感じだった。


佐藤:不安の方があったと・・


こんなのが来たって、異物だ、異物だとなっちゃうなと・・


佐藤:地域とのマッチングが、ちょっとこれだとうまくいかないんじゃないかなみたいな・・


立川にしてもね、面白い作品もあったかもしらんけども、地域の人が、「川俣正がいいから、こっちの方がいい」とか、誰もね・・言える人は万に1人なんですよね。そういうのなものが入ってきたので・・


佐藤:では逆に、視察に行っても、本当に大丈夫かなっていう思いの方が、強くなるぐらいの・・・


ほとんどそうだったんじゃないですかね。 最初はね、これで大丈夫なんだって思わない方が異常だっていう(笑)。 でも全くそうだと思います。私なりにアートを何に生かすかって言われたら、自分なりに考えて・・最初はさっきの山梨や箱根の美術館のように、そういう1つの所に作品を作ってという形を考えて・・今までの美術鑑賞ってそうですよね。日本の美術鑑賞って100%そうだと思ってもいいかもしれない。そういうのやるんだと思ってたんですよ。でも、いやそうじゃないって言われて。「その場所を生かす」とか言われて・・「場所を生かす?」何のこと言ってるか分かないよね(笑)


佐藤: 実際、大地の芸術祭が実現するまでは、アートのこういうあり方が可能なんだっていうのは、想像しにくいですよね。


頭で考えてもわからなかった。全く・・北川さんってきっと、100回や200回じゃないんですけども、小さなのも含めたらもう1000回ぐらい住民説明会をやったり、住民と話したりしてると思うんですけれど、でも、わからないのを、わかれと言うのが無理な話で・・・いやそこから始まったんですよ。だってどういうのやるかって聞いたら、「いやその、作家の感性を通して、その場所の魅力を引き出す」みたいな・・こっちは「えぇ・・?」みたいな(笑)・・「棚田が・・・」とか、「ブナ林が・・」とか言われて・・・


佐藤:言葉として、やはりその時あまり入ってこなかったと。


知恵でも知識でも、その範囲じゃなかったんですよ。例えばね、「『棚田の魅力』を『作家の感性を通して』『引きだそう』」っていう言葉があると。じゃあ今ならね、どういうことだといえば、あのカバコフさんのね、まつだい農舞台のあれはまさに、棚田というところを春夏秋冬の稲作りを通した情景をそのまま表して・・それはまさにさっき言っていた言葉を、そのまま具現化されている。こういうことだと説明できる。視覚的にもできるけど、当時はそういうのが全くなかったですからね。そこを越えてくために、2年3年の時間があって、潜伏期間があって、やろうと思ったらダメで、結果的に2000年に実行するのに、1998年にようやく実行委員会ができたんですよ。7月の20日ぐらいだったと思うんですけども。 実行委員会を作ること自体がもう至難の技だった。それが1998年の7月ですから、それで2000年にやれたんですよね。


佐藤:そうやって1回目を開催した後に、そこで変わったことというのはあったんですかね。


北川さんがいろんなとこで話してると思うけど、最初はほとんどは作品を行政側が、例えば何とかさんって言う作家さんが、どこでやりたいというプランを持ってきて、それをどこでやるかと行政が地域に当てはめたんですよ。これはじゃあ松代でやろうとか・・むしろノルマでさ。それぞれの地域で5箇所づつ担当しようとか、当てはめて行ったんですよ。それぞれ、これはどこどこでやろうとか言ってね。


それでスタンスがかなり広がったのが松代ですから。かなりの作品を受けてもらって・・その時に、自分のところで作品を作りたいって、手をあげたのは、下条と鉢と・・他にあるかなぁ・・ 2箇所、3箇所しか最初に手をあげたのはそれぐらいだったんですね。そこのところが、行政職員が大事なプランなので、地域に一生懸命、本気になってやって、そうやって作品が成立したんですよ。その時に、地域が自分たちから作ろうとしてやれたのは、ほんの数カ所。でもそこのところが、結果的には作品が守られたと言うか・・


國安孝昌さんという作家さんがいて、松代のキャンプ場の上の方へ、1万本ぐらいの木材を使って龍の作品を作った人なんですけども。國安先生がいて、自分で真っ黒になってさ、一緒に汗流して、地域の老人クラブの人と一緒に作品を作ったんですよ。それを見て、マスコミが取材に来て、老人クラブのお年寄りにインタビューをした。この作品どうですかと。「こんなのダメだ」みたいな、たぶんそういうのを引き出そうとしてたと思うんだけど、


佐藤:良い感情ではなくて、ネガティブな立場で取材に来ていたと。


そしたら、「うちはアートはわからないけど、汗を流して、一緒になってやってくれる國安先生大好きだ」と、「だからこれはいいよ」と言って、作品に携わった人たちが、結果的にダメだと言って離れなかった。そういう状態で作品を守ってくれたんですよ。もしあの時に、一緒にやった人たちが、「こんなの俺らは二度とやらない」と言って離れて行ったら、その時点で大地の芸術祭は2回目はなかったんです。 そういうところがいくつもあって・・そのカバコフさんもそうだし、下条もそうだし、鉢もそうだし・・結果的にはね作家の人間性というか、その人と携わった人たちが、そこの作品を守って、拠点ができていったんです。携わらないところは、十日町でも地域によっては絶対うちの方には入れないというのはまだありますよね。そこのところのスタートができたんですよ。


それから第1回目に、ボルタンスキーさんは、清津川のところで、真っ白いね布をこう・・清津川のゆくら妻有という温泉なんかがあるところで、真っ白い布がこう、あたかも生きているように、はためいているみたいな・・そういうような作品を作られたんですよ。その時に、 地域の人たちがいっぱい布を集めてくれたんです。きっと、2000枚ぐらい集まったんですけども、そのうち実際に使ったのは200枚ぐらいで・・・それは、ボルタンスキーさんが自分の持ってるイメージで、本当に真っ白な無垢なものだけが風にたなびいているという、そういう作品にしたかったみたいで・・結局それだけしか使わなかったんですよ。でもその時に、その集めたりしていた人たちが、「何で俺はこれだけ一生懸命やったのに、無駄な仕事をして・・」って言わなかったんですよ。そういうところがいくつもあって・・結果的に、それがひとつひとつ芽を生やす原点だったんです。


鉢でね、フランスのブルーノ・マトンさんという作家さんがいて、最初に交流会をやって、顔合わせしてみたいなのがあって・・それは行政が仕掛けしたんですけど、それで一緒に飲む会をしたら、地域の人は、最初はまあ仕方ねえな、市の人がやるんだからやってやるかみたいな感じだったんだけども、でも結果的には、その作家さんの人となりと言うか、もう地域の人が惚れ込んでね、それで最後は涙を流しながらお別れ会をして、その後も何回も来てくれて作品を守る。そういうところで1回目の時に、定着したところができた。で、2回目からは、行政が押し付け方式から、手上げ方式に劇的に変えたと。それが今地域に根ざす一つ目のところだね。


*****


佐藤:僕も妻有で10年ほど活動をしていて、そういった地域の方々の動きを近くで見させてもらっているんですけど、一つ気になるのが、そういった外から来た何かを受け入れるという、体制というか体質みたいな物っていうのは、ここら辺の地域にもともとあった物なのか、それとも、芸術祭が始まって、アートやアーティストという異物が来て生まれて来たものなのか、っていうようなところがあるのですが・・・


いや、この辺の地域の人間性なんでしょうね。少なくとも相手が一生懸命やっていたら、そういうのを受け入れてという。そういう意味ではね、地域おこし協力隊とかいろんな人が来て、この地域があったかいっていうのは、それはそういう雪が作り出したのかもしれないし、時代が作り出したのかわからんけど、そういう素地がここにあるんだと思いますよ。けどね、ダメなのは絶対ダメなんですよ。地域の人に受け入れられなくて、実現しなかった作品のプランも、たくさんあると思います。


佐藤:今回の他のインタビューの中で、芸術祭を初期からずっと支えてらっしゃる方にも、また、前回くらいから関わり出した方達にもお話を伺ったんですけども、ゼロから作ってきた人たちと、これから関わる人たちで、だんだんと世代交代も始まってくるのかなっていうことを感じました。そのバトンを、どう受け取ったらいいのか、またどう渡せば良いのかって、すごく難しい課題だと思うんですが、どんなことを意識していいったらいいんでしょうか。


それは・・いろんな人がいっぱいいるから、この人にこういうのがいいとか、この人はこうだとか切り口も違って色々あるからね・・・それはもう、その人が自分の生き方とか、生き様も含めて・・・妻有とかこの人たちのために、こういうことをしようとか、してやるとかそういうことじゃなくて、自分の生き様をこめて、この大地の芸術祭と本気にどう向き合うかと、そこのところがしっかりしているかどうか・・・俺が行って助けてやろうみたいなそういう人はちょっとやったら・・この辺の人たちはね、皆優しいから面と向かっては言わないかもしれないけど、そういうのを見抜く力は、ものすごくみんなきちんと持ってますから(笑)・・・


佐藤:それは何となくわかります(笑)


そんな人はここにいれなくなりますよ。弾き飛ばされて。


佐藤:人を見ているというか、見られているというのはすごく感じます。


外から来た人にとっては、そこのところで迎えてくれることにとっては、すごくあったかい地域だけど、この人がうちの地域にとって異物だと思った人にとっては、ものすごく住みにくいところなので、その両方がある地域ですから・・・現状を変えていこうとか、エネルギーがあるのはとっても大事だけども、それが自分のためにとかそういうのは、ものすごくきっと見分ける力というか・・・いや、自分達が生きていくためにさ、そういうのを身につけて来たんだと思う。それは5年、10年じゃなくて・・・そういうところに入るわけですから・・・


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2018年4月7日 十日町市下条公民館にて